浴びせるとは何?
売り方が、相場の下落を意図して一時に大量の売り注文をすること。
「売りを浴びせる」などと使われる
株、機は熟したと判断した王は、西スーダン遠征について、閣僚に諮った。当初閣僚たちは、押し黙っていたので、王は、反対だとしたら何故かと問うと、渡り鳥さえ力つきて落ちるという環境の厳しいサハラ砂漠へ大軍を送れるのかということと、遠征中のトルコの干渉をおそれる意見を述べた。王は、隊商が通れる道を軍隊が通れないはずがあろうか、またトルコは、南回りでモロッコ攻略するような冒険はしない、と主張し、1590年12月29日、火縄銃を装備した歩兵2000、同じ装備の騎兵500、槍と投げ槍装備の騎兵1500、8000頭のラクダと1000頭の馬という大軍を出発させた。隊長は、パシャ・ジェデルというキリスト教からの改宗者で遠征部隊自体にもキリスト教からの改宗者を多く含んでいた。1591年3月1日、遠征軍は、ついにサハラを踏破したが、厳しい環境のため、1000人あまりに減っていた。しかし、火縄銃という火器を持っているモロッコ軍は、盾と槍しか知らないソンガイ軍を打ち破った。3月21日の会戦でソンガイ王イツハーク2世は、大敗し逃走した。翌1592年4月に殺され、ソンガイ帝国は完全に滅亡することになる。モロッコ軍は、1591年4月25日に待望のトンブクトゥ入城を果たすがトンブクトゥは廃れた極貧の町になっていた。実は、ソンガイ帝国は、1580年代にはいって王位継承争いのみならず旱魃、洪水、疫病の頻発によって荒廃していたのだった。1599年、ソンガイの属国になっていたマリ帝国のマフムード4世は、ソンガイ崩壊の混乱状態に乗じてジェンネを奪回し、かっての繁栄を取り戻そうと試みたが武器にまさるモロッコ軍に打ち破られ、今度こそ見る影もない小国に分裂していった。サアド朝はその後、22年間、トンブクトゥの太守(パシャ)を任命し続ける。任命太守がいくなくってからも、旧ソンガイ領を支配したモロッコ人部隊は、サアド朝が滅んで100年以上もたった1780年ごろまで彼ら自身の中から太守を選任し、周辺部族から税を取り立て続けた。西スーダンの征服は、サハラ越えの交易ルートの安定化につながり、サアド朝の威信を高めた。黄金や象牙の流入も以前より容易になり、マンスール王の死後もサアド朝は、しばらくは経済的な繁栄を謳歌することができた。1507年、ダヤン・ハーンの三男・バルス・ボラド・ジノン(サイン・アラグ・ハーン)の次男として生まれる。母はホソイ・タブナンの娘・ボダンである。
株と、その後を継いだ。この頃は、内モンゴルのトトメト部を治める小領主に過ぎなかった。1524年に祖父が死去すると、その後を継いだボディ・アラグ・ハーンの宗主権を認め、その治世に協力した。
1538年、内乱鎮圧の功績により、チンギス・ハーンを形容する際に使われる「ソート」( suu tu ; 天恵をもつ)の称号を与えられた。1542年には明遠征での功績により、「トゥシェート・セチェン・ハーン」(補佐する賢明なハーン)の称号を与えられ、正統ハーンのボディ・アラグ・ハーンを補佐する次席ハーンとなる。これにより、内モンゴル高原の西半分に遊牧するモンゴル右翼3万戸の最有力指導者となった。1550年にも明に侵攻し、北京にまで迫った。
1547年にボディ・アラグ・ハーンが死去し、その後を継いだダライスン・ゴデン・ハーンは、アルタンの勢力拡大を恐れて、興安嶺山脈の南東側に逃亡した。このため、空白地帯となった牧地はアルタンの弟・ハイスハル・フンドゥレン・ハーンとアルタンの長子・ドーゥレン・センゲ・ホンタイジが勢力を伸ばし、アルタンの勢力はさらに拡大した。そしてこれらの勢力拡大を背景にして、1551年には正統ハーン位に推戴され、即位したのである。
ipo・モンゴルで積極的な活動を続けて勢力を拡大する。1552年からはオイラトに侵攻してカラコルムを支配下に置き、チベットやカザフスタン方面にも進出した。
しかし全盛期は長くは続かず、1570年に孫のパカンナギが明に投降したのを契機に明の宣大総督である王崇古と和平交渉を行ない、1571年に明との和平条約を締結した(隆慶封貢/隆慶和議)。このとき、明から順義王に封じられ、一族の者や配下にも明の官職が与えられた。そして朝貢を許され、その地位に応じて年金が与えられた。しかしモンゴルの庶民は、明に侵攻して略奪することで多くの収入を得ていたため、この和平で略奪行為が不可能になり、不満を持ち始めたという。
1580年頃から病に倒れ、1582年1月に死去した。76歳。長男のドゥーレン・センゲ・ホンタイジがハーン位につき、明から次の順義王と認められた。しかしアルタンの死後、モンゴルは分裂してゆくようになる。
ティムールの五代後の直系子孫であるバーブルは、中央アジアのトランスオクシアナをウズベクのシャイバーン朝に追われ、南のカーブルを本拠地として雌伏していたが、晩年に目標を中央アジア奪還からインドの奪取に切り替え、1526年にパーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝最後の王朝ロディー朝を破り、デリー、アーグラを制圧してインドにおけるティムール王朝としてムガル朝を建設した。
個人向け国債、後を継いだフマーユーンはグジャラートに勢力を広げるが、ロディー王朝と同じアフガン系のスール朝を開いたシェール・シャーによって1540年にデリーを追われ、やがてアフガニスタン方面にいた諸弟もフマーユーンに離反したため、ムガル朝は一時崩壊した。フマーユーンはシンド地方を放浪した末にイランのサファヴィー朝のもとに逃れ、その支援を受けて1545年に弟たちの支配するカンダハール、カーブルを相次いで奪還、シェール・シャー死後内紛によって分裂したスール朝を討って、1555年デリーに返り咲き、ムガル帝国を再建した。
アクバル時代のムガル帝国ムガル朝を真に帝国と呼ぶにふさわしい国家に発展したのは、1556年に不慮の事故死を遂げたフマーユーンを継いだアクバルの治世である。
アクバルの統治方針は、多様な社会階層からの人材抜擢とその方針の徹底であった。そのため、アクバルの政府にはシーア派のペルシャ人、アラブ人、現地ヒンドゥスターンで生まれ育ったムスリム、ラージプート、バラモン層、あるいは、マラータ人までが参画していた。また、ラージプートなどの豪族層を自らの支配層に取り組むために、彼らが所有する領地からの収入を認めるとともに、ヒンドゥーであるラージプート出身の女性を妻とした[1]。
資産運用はイスラーム以外の宗教に対しても寛容であったことが知られる。帝都ファテープル・シークリーには、バラモン、ヨーガの行者、ジャイナ教徒、イエズス会士(彼らはゴアに滞在していたポルトガル人である)、ゾロアスター教徒が集まり、議論をさせることを好んだ。さらに、サンスクリットで著述されていたインドにおける二大叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』を翻訳させた。加えて、ムスリム以外に課せられるジズヤの廃止も行った[1]。
アクバルは行政改革をも実施した。イスラーム王朝の性格が強いムガル帝国であるが、ムガル帝国初期の行政機構は、農業に基盤を置いていた近代のほかのアジアにおける諸帝国との共通点が多い。
王朝名の「ムガル」とは、モンゴル人を意味するペルシア語の「ムグール」(モゴール ; ???? Mugh?l)の短縮した読みであるムグル、ムガル(??? Mughul/Mughal)が転訛したもので、最近ではこのことからムガル朝とも言う。すなわち、「ムガル帝国」とは「モンゴル人の帝国」というほど意味の国名になるが、これは飽くまでも他称であり、ムガル帝国では最後の君主バハードゥル・シャー2世の治世まで一貫してティムールを始祖と仰いでおり、ティムールの称号「アミール・ティームール・グーラカーン」、すなわち「グーラカーン ?????? G?rak?n (チンギス・ハーン家より子女の降嫁を受けたその娘婿(グレゲン mon:Guregen 、キュレゲン trc:Kuregen)であるアミール・ティムールの一門」という意味で、自らは ??????? G?rak?n? などと呼んでいた。ちなみにムガル帝国の成立まで、チンギス・ハーン以来モンゴル人によってインダス川流域やカシミール地方から度々侵入を受けたが、インドの諸政権は領土的な支配を許していない
祖父に劣らぬ智勇兼備の人物で、その才腕と器量でモンゴルを再統一した評価は高い。
信心深い一面があり、チベット方面に進出した際、仏教に帰依している。のちに青海に迎華寺を建立し、第3代ダライ・ラマを迎えた。このため、モンゴル全土にチベット仏教が広まり、アルタンの孫は第4代ダライ・ラマとなっている。
1542年に山西省に侵攻した際、男女20万人を虐殺し、さらに200万の家畜を略奪し、8万軒を焼き払うという残酷さを見せている。1550年に北京に迫った際、明軍を北京に籠城させるまでに追いつめたこともある。
武勇ばかりが目立つが、亡命漢人の官僚、白蓮教徒、さらに明から生活苦で逃亡してきた農民などを積極的に受け入れ、彼らの文化を受け入れてフフホト(内モンゴル自治区の首都)など多くの都市を建設するという優秀な内政手腕も持ち合わせていた。