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資産運用は、これを同年8月4日にジブラルタル海峡の南方数十キロしかはなれていないラーライシュとアルジーラの中間を流れるルッコス川とその支流マハザン川周辺で迎え撃った。この戦いは、モロッコでは、「マハザン川の戦い」といい、ポルトガルでは、ドン・セバスチャン王が戦死して本土がスペインの支配下に入る契機をつくってしまったことからアルカサルケビルの惨事と呼ばれる。また、ポルトガル王とサアド朝の前王と現王が会戦を行ったことから「三王の戦い」とも呼ばれる。 緒戦は、アブドゥルマリク麾下のサアド朝軍が異教徒撲滅の聖戦意識に燃えて善戦したが、やがてじわじわとポルトガル軍の優れた火器が威力を示し始め、サアド朝軍はやや後退せざるを得なくなった。勢いに乗るポルトガル軍は、これを追撃したが、サアド朝の伏兵と騎兵が側面から攻撃をかけた。ポルトガル=ムタワッキル連合軍はこの攻撃で総崩れとなり、サアド朝軍の反撃に対抗できずに打ち破られて敗走した。この戦いでは、ポルトガル王もムタワッキルも、また戦いには勝ったものの、アブドゥルマリク自身も戦死した。アブドゥルマリクをついで王位に即いたのは、王弟アフマドである。
アフマドは、マンスール(「勝利者」)、「黄金の人」というあだ名を付けられて、アフマド・アル=マンスール(位1578〜1603)と呼び慣わされ、サアド朝の全盛期を築いた一代の英傑であった。彼は、前述のとおり若い頃にオスマン帝国のスレイマン1世のもとにいたことがあるが、外遊によってトルコだけでなくヨーロッパ各地の事情にも通じ、トルコ語を含む数カ国語を操るという天才的な人物であった。スペインに対しては、友好関係を維持し、フェリペ2世がポルトガル王を兼ねることについて、恐れを抱いたイギリスのエリザベス1世の協定締結を拒絶しつつも、スペインに対するイギリスの意識を巧みに利用して、1589年、スペイン統治下のアルジーラを獲得した。トルコに対してもその侵攻に備えてフェズの城壁を強化し、アルジェリアよりにある町の城壁を固める一方で、宮廷の高官たち全てにトルコ語を学ばせたり、軍隊にもトルコ風の要素を取り入れるなどトルコを必要以上に刺激しないよう注意を払った。内政においては、各地の聖者信仰の対象である小聖者たちを「王政機構(マフザン)」に組み込んだ。そして閣僚には、各地の有力部族長のほか、有能であれば、旧キリスト教徒や旧ユダヤ教徒も登用して、国内の安定化と行政機構の効率化を図った。それから国内に残存する小聖者を中心とする同胞団勢力や修養所勢力、山岳部族を一つずつ平定していった。この掃討戦においてアフマド・アル=マンスール王の威光は、神の恩寵(バラカ)としてとらえられ、スーフィー勢力のなかにも戦わずして降伏する勢力も多かった。このような国内安定策は、当然ながら経済的な繁栄をもたらし、多数の国の商船がモロッコの各港に入港した。王は、運河を整備させたので、サハラ越えの交易路と海路が結ばれ、物資の流通がスムーズになりその中継貿易の利益が国庫を潤した。ヨーロッパ各国の外交使節団も王の歓心を買うために頻繁にマラケシュの宮廷に来訪した。王の時代には、マラケシュに壮麗な墓宮やトルコの要素を取り入れつつイタリアから運んだ大理石で築かれたバーディー宮殿、フェズに華麗なサーン・パピオンが付設されたカラウィーン・モスクが築かれた。また、マリーン朝時代に建てられたイブン・ユースフ・マドラサを修復し、その規模を拡張した。
外国為替証拠金取引とソンガイ帝国は、アフマド・アル=アアラジュの時代からソンガイ帝国のイスハーク1世(位1539年〜49年)と現マリ共和国の北端、サハラ砂漠中にあるテガーザの岩塩をめぐって所有権争いをしていた。アフメッド=ル=アレジの頃、王弟ムハンマド・アッ=シャイフによる占領を阻止し、逆にトゥアレグ族の騎馬隊を使ってモロッコに侵攻させた。アフマド・アル=マンスール王も引き続きその所有権を主張しつづけ、当初はソンガイのアスキア・ダーウード(位1549年〜83年)とソンガイ帝国の利権と所有を保証することでとりあえずの妥協をしていた。しかし、サアド朝にとって、ソンガイの領有する西スーダンの塩と金とその交易ルートを支配し、黒人奴隷を獲得することは経済的に非常に魅力的な話であった。マンスール王は、アスキア・ダーウードが死に、ムハンマド3世(位1583〜86)が継ぐと、ソンガイ攻略の機会をうかがい、テガーザを占領、1585年に2000人の先遣部隊にソンガイ国内の様子を探らせた。ムハンマド4世(位1586〜88)が即位するとソンガイ国内で内乱が起こり弱体化がはじまった。マンスール王は、内外の情勢を検討し、アルジェリア方面への遠征は、トルコを刺激し、泥沼の戦いになるが、西スーダンのソンガイ攻略については、トルコは関知せずの態度をとるだろうと判断していた。
投資信託の息子たちは、いずれも無能な人物であった。長子ブー・ファリーズ(位1603年〜08年)はマラケシュで、次子ムハンマド・エッ・シェイク2世エル・マームーン(位1608年〜13年)はフェズで、三子ムーラーイ・ジダーヌ(位1613年〜27年)は、マラケシュとフェズの中間、タードラ地方でそれぞれ宮廷をひらいて王を称した。ムーラーイ・ジダーヌは、フェズに入ってマームーンを投獄するが、ブー・ファリーズは、マームーンを密かに解き放つことによってジダーヌ勢力の弱体化を狙うといったように内戦状態にはいった。以後この内乱状態は20年近く続くことになる。1613年、マームーンは暗殺され、子のアブドゥラーがマームーンの勢力を受け継いだ。アブドゥラーは伯父のブー・ファリーズを暗殺する。ジダーヌは、やがてフェズと北部平野を放棄し、以後ジダーヌとその子孫は、1627年までマラケシュを根拠地とすることになる。王家の嫡流がこのような状態であるので、王家の血をひく分家諸侯も自らの根拠地で独立を図るようになり、マンスール王時代には、「地下に」潜んでいた同胞団や修養所勢力が分家諸侯との同盟によって勢力拡大をはかるようになる。このようなサアド朝の分裂状態は、商人たちにとっては、分家諸侯の領地を通るたびに多額の通行税がかけられるという深刻な事態を生み出し、経済を沈滞化させていった。
日経225の経済に追い討ちをかけたのが、ヨーロッパ諸国の新大陸の開発であった。16世紀、スペインは中米とアンデス方面を征服し、ポルトガルは、ブラジルを植民地化したが、スペインは、カリブ海を囲むアンティル諸島、ポルトガルはブラジルでそれぞれ甘蔗栽培を始めた。そのため、モロッコの重要な産物であった砂糖の価値が下がることになった。また、ポルトガルは、1640年にスペインから独立すると、ギニア湾北岸まで至る西アフリカ海岸沿いに多くの港を開発、西アフリカ、アカンの黄金と象牙を直接入手できる港を獲得したことになって、モロッコのもつ大西洋岸の港の価値も下がることになる。この時期には、スペインとポルトガルの関心は、黄金よりも奴隷の獲得にむかった。というのは、甘蔗栽培はいくらでも奴隷を必要としていたからだった。1600年以前では、年間1万6000人だった奴隷の輸出が17世紀にはいるとその10倍にまでなった。しかも、西アフリカの開発と奴隷の獲得は、ギニア湾沿岸の黒人王国にも影響をあたえた。つまり奴隷獲得のためにスペインとポルトガルは黒人王国の君主たちの要求するにまかせて銃などの優れた兵器をあたえたので、サアド朝の権威はこのことによっても傷ついた。ナイジェリアのギニア湾岸に栄えたベニン王国の「銃を持つポルトガル人」を象ったいくつかの青銅彫刻はこの時期を象徴する美術作品である。モロッコ行き隊商も1年に1回であったのが3年に1回に減らされた。ムーラーイ・ジダーヌ王がトルコにどうにかしてくれと泣きつくという事態になり、アブドゥッラーの次子アル・ワーリド王(1631〜36)は、即位するや黄金の輸出を禁止した。 元気なのは、「小聖者」を中心とするアル・アヤチ家やディラー団といったFXや修養所勢力であった。スペインなどに聖戦を挑む一方海賊活動まで手がけて活躍した。サアド朝は、同砲団の首領たちを知事に任命したり、ムハンマド・エッ・シェイク・スギール王(位1636〜54)などは、ディラー団の首領ムハンマド・ハッジを軍司令官に任命したりして懐柔しようとするが彼らの独自の活動を止める力を失っていた。またアトラス山中から興った「聖者」ブー・ハッスーンが、スース地方のセイテリヤー修養所の「聖者」になってサアド朝との抗争を続け、モロッコ北部のラーライシュを念願の港として手に入れるなどの勢力を示した。このためサアド朝は、すっかり衰退し、アフメッド・ル・アッバース王(位1654〜59)を最後に直系の王をたてられず、一同胞団や一修養所勢力になりさがった。その後、サアド朝の残党の公子の一人ライイランは、ディラー団の本拠新サレ(現ラバトのウダヤー地区)を1664年に奪って1668年まで支配し、「海賊大将」の名でマルセイユと通商、二つの銀行に莫大な預金をしたという。ライイランの海賊活動は、1672年にアラウィー朝に降ったあとも続けられた。 モロッコの統一は、1670年のアラウィー朝のムーラーイ・ラシード(位1666〜72)による再統一を待たねばならない。